みなさん、こんにちは!志方です。
あと2週間もすれば7月になりますが、7月といえば中学生にとっては勝負の月で、この1ヵ月で全国大会に出場できるかどうかが決まります。
僕は中学2年生のころに出場できるかどうかのところまでこぎつけましたが、結局全国大会出場の切符を取ることはできませんでした。
今日は、そのあたりの話を振り返りながら話していこうと思います。
参考になるかわかりませんが、参考とは別に話のネタとして読んでいただけたらなと思います。
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全国を意識し始めた中2の春
僕は、中学に入学してから陸上部に入部してそこから陸上人生をスタートさせましたが、入部当初はそんなに速くない選手でした。
最初の記録会で1500mを4分54秒で走りましたが、速い選手はそのころには4分40秒を切ったりしていたので、まだまだの選手になります。
神野くんのYoutubeに出演した際に話をしましたが、僕の中学校の先輩で年齢的に入れ替わりで、全国大会に出場された方がいて、
ものすごーく田舎の学校で、県大会に出場するだけでもすごいと言われるのに、全国大会に出たとなるともしかしたら自分たちも全国出れるんじゃないかと、一緒に入部した友達と話してました。
中学生の全国大会に出場するには、全国参加標準記録というものが設定されていて、その記録を指定大会で突破した者に出場権が与えられます。
その指定大会というのが、兵庫県では7月上旬に行われる通信陸上大会と7月下旬に行われる兵庫県中学総体の2大会で
その2大会の予選、決勝のどれかで参加標準記録を突破することが必要になります。
当時の全国大会参加標準記録というのが、
- 1500m 4分12秒(中2まで)→4分10秒50(中3時)
- 3000m 9分05秒
になっていて、中学1年生のころは、1500mで4分12秒なんて速すぎるーとか友達と言ってました。
顧問の先生からは、将来全国大会出られるように長い目で見てやっていったら良いと言われていましたが、
僕としてはその言葉には半信半疑で、やっとこさ1500m4分40秒台で走れるようになって、県大会の決勝にギリギリ残れるぐらいの選手でした。
だから、1年生のころは勉強を少し頑張っている感じでした。(それでも学年の真ん中よりやや上ぐらいでしたが...。)
転機が訪れたのは、2年生に上がる直前の3月の記録会の3000mで、県でも実力のある一学年上の先輩にべったり付いてラスト300mでスパートして勝ったレースがありました。
そのときのタイムが9分27秒とかで、トラックで3000mを走るのは2回目だったので(ロードでは数回ある)、1分ほど自己ベストを更新した上に、4月末にある兵庫リレーカーニバルの出場も現実味が出てきました。
兵庫リレーカーニバルはグランプリ種目である10000mが有名ですが、県内中学男子3000mという種目もあり、サンテレビという兵庫のローカルチャンネルでテレビ放送されるというだけあって、兵庫県の中学生にとっては一つの憧れの大会でもあります。
そのリレーカーニバルに出場するには、3月末に記録会という名の選考会があって、タイム上位30名が出場することができます。
タイム上位30名が例年だいたい9分30~33秒くらいまでで、この9分27秒というのは、もしかしたら出場できるかもと思わせてくれるタイムでした。(このタイムを出すまで兵庫リレーカーニバルという大会自体知らなかったのはナイショ(笑))
なんやかんやで、その選考会もギリギリの9分30秒でなんとかクリアして兵庫リレーカーニバル出場までこぎつけることができました。
リレーカーニバルのレース前に顧問の先生からは、9分15秒を目指そうと言われていて、調子も良かったしうまくレースが行けば、そのタイムで走れそうかなーと思っていました。
実際のレースでは、緊張のせいか口の中がカラカラだったとしか思い出せず、自分がどうやって走っていたのか全く覚えていないのですが、前半は後ろから行って、後半に上がっていくスタイルのレースだったのは覚えてます。
結果は9分09秒で、9分15秒の目標も大幅にクリアして、全国大会参加標準記録まであと4秒までのところまでいくことができました。
それまで、全国大会が夢物語のようなものだったのが、このレースで一気に現実味が帯びてきました。
通信大会で記録を突破できず 涙
リレーカーニバルで9分09秒で走ったものの、その後はそのタイムをなかなか更新できずに9分05秒の壁の厚さを感じていました。
9分10秒とか、9分12秒とかで複数回走りましたが、一桁のタイムにはなかなか届きません。
そんな感じで不安を残しながら、7月上旬の通信大会の日が訪れました。
初日の1500mも出場しましたが、ボロボロの予選敗退で
翌日の3000mは大丈夫かなとさらに不安になる内容のレースでした。
3000m当日になり、3000mの1組目では学年の一つ上の方たちが順調に全国大会参加標準記録を突破していく中、2組目の僕は不安と緊張でいっぱいでした。
やっぱり、4月のリレーカーニバル以降、9分09秒の自己ベストを更新できてなかったというのは不安材料で、この出さないといけない大会でピッタリ合わせられて9分05秒という自己ベストよりも速いタイムで走れるんだろうか。
そういう考えが頭の中でずっとありました。そうこうしているうちにスタートの時間となりました。
スタートすると、実力のある3年生の2人が抜けだして9分00秒を切るペースで進んでいきます。
そこにはなかなか付いていくことができず、別の3年生の2~3人くらいの集団でレースを進めました。
そこの集団は、標準記録を切れるかどうかギリギリのペースで進んでいて、誰か引っ張ってくれないかなーとそこに走っている集団全員が思っていたことだと思います。
でも、ペースが落ちると全国大会にはいけないから、ペースが落ちれば誰かが出てペースを戻すみたいなことを繰り返していました。
僕も何回か前に出てはペースを落とさないようにしていました。
ついにはその集団も僕ともう一人3年生となってしまってお互い余力の無い状態の中、ラスト1周の鐘が鳴りました。
このときばかりは、自分のスパート力の無さを恨みました。どれだけ速くスパートをしてもラスト400mを65秒かかってしまう自分には、8分ちょうどでラスト1周を迎えてしまったときには、これはダメかもと思いました。
キツイ状態の中、でも全国はもうそこまで近づいているのにいつも通りのスパートしか出すことができず、無常にもゴール寸前のところでタイマーが9分05秒を示してしまい
おわった...
結局、9分05秒88でコンマ88秒足りずに全国の切符を取ることができませんでした。
そのとき、はじめてレース後に泣きまくりました。
リレーカーニバル以降、この大会まで自己ベストは更新できなかったけど、この大一番で自己ベスト更新したのは自分でも良くやれたなと思います。
ただ、コンマ88秒となると、ラスト一瞬だけでももう少し振り絞っていればと思いますが、走っているときも必死だったはずなので、たぶんあれ以上は上げられなかったと思います。
泣きまくりながら、トラックをあとにしてダウンをしに行きました。どういう心境だったか覚えてないです。
顧問の先生には、決勝もあるからまだチャンスはあると言われて、それまでゆっくり休もうと言われたのは記憶として残ってます。
決勝は午後にあるけど、予選で標準記録突破を掛けて渾身の一発を出したので、決勝で9分05秒を切る体力はありませんでした。
あんなに泣いたから、体力も相当減ってただろうしボロボロの決勝になるのではと思っていましたが、
意外とみんな条件は同じで予選で力を使い切っていたので、まさかの4位でゴールすることができました。
タイムは9分12秒と標準記録には全然及ばなかったけど、あの精神状態から兵庫県4位というのは、1年生のころの自分からは考えられなかった順位だったのでそこはうれしかったです。
全国大会の出場権は獲得できなかった悔しさはありつつ、決勝で4位には満足している、なんとも複雑な心境で通信大会が終わりました。
でも、チャンスはまだ兵庫県中学総体が残っています。そこで突破すると誓ってその日は眠りにつきました。
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